お願いだから言葉にして・・・。人間は想像力の動物だ・・・貴方が言えなかった言葉くらい、アタシが想像してあげるから。・・・だから、言葉にして。
ミスエの科白
現在を忘れてしまった遠藤、誘拐されたミスエ、記憶の残像である山本。
脳から血が吹き出た、あの夏の日の走馬灯。
こんな話として観た。
今がいつであるのか、ここがどこであるのか、自分がなにものであるのか。そんな、自分と世界との結び目がわからなくなっている青年遠藤。ミスエの誘拐とは、自らの存在の統一性を保つ「核」自体が消失してしまった状態の比喩だろうか。こんな状態になった青年は、ある場合は、世界に対して暴力的に関わることでかろうじて世界内の存在としての自分を確かめたりもするだろう。「透明な存在」と自らを規定した少年Aもそんな一人だっただろう。
しかし、遠藤は犯罪者になることで自己の存在証明を求めることさえしない。そんな彼はひたすら自己解体を続けるばかりである。何が現実で何が虚構かの区別も不明確になり、時間も言葉も、時間の流れや現実のモノとの確かな関係を失っている。今がいつであるかも分からないし、例えばライムとレモンも単なる音の違いでしかなくなっている。そんな彼にとってリアルなのは過去だけである。彼はボケ症状の老人のように過去のなかでだけ生きている。彼にとってのリアルな過去、それは自分と世界のズレとキシミを体験をした過去である。この作品で描かれる保育所・小学生・中学生、どの時期の記憶もすべてそうだ。
記憶は、必ずしも客観的な事実とは限らない。むしろ、今の自分の側から、そうなった必然性を証明するために創出された一つの「物語」であるというべきであろう。そこでは事実も虚構も、彼の「記憶という名の物語」という点ではすべて同価値である。遠藤は物語のなかでだけ生きている。大和川博士が発見した「運命の赤い糸」も、多分遠藤自身が自己解体を「宿命」として受け入れるべく発見した「物語」の一つと言えるのではなかろうか。
そんな彼が自己解体の果ての「脳死」からもう一度世界に戻ってくるそのきっかけをつくるのが、あの誘拐されたミスエである。なぜミスエは現れたのか。多分それは遠藤の中に無意識に存在している、もう一度世界に戻ってきたい、そして今を人間として生きたいという願望の結晶化だろう。「アイシッテル?」(あるいは「アイシテル」)というミスエの声にならない言葉は、遠藤の心のうちに常にあった、自分を回復したい、世界と愛し合いたいという願いそのものだったのだろう。「赤い糸」が魚雷によって断ち切られること、遠藤とミスエのいつまでも続くような固い握手、それまで否定していた芝居をしようという決意は、遠藤の自己回復と、たとえそれが束の間の幻想にすぎないとしても世界=他者と和解したいという希求の象徴的表現だったように思う。
こんなふうに観ると、次々に役柄を変える登場人物は、全て遠藤自身の紡ぎ出した物語の中の人物たちだったに違いない。したがって、遠藤が統一性(アイデンティティ)を獲得し、世界の中で生き直し始めた途端に、登場人物たちは遠藤自身の中に吸収されて消えていくことになるのだ。
カーテンコールで役者たちがにこやかに登場したのではそんな主題がぶちこわしになる。だからカーテンコールはなかった。いつのまにか芝居は終わった。ぼくは、こんなふうに観た。
ところで、遠藤はこれからどんな新しい物語を作り始めるのだろうか。様々な登場人物はどんな新しいキャラクターとして再登場するのだろうか。「愛」と「触れ合い」、作品の中ではそんな言葉で語られていたが、それはリアルな世界においてはどんな具体性をもっているのだろうか。『イコウル』を見終わって、作者にそれらのことを聞きたいと思った。
脚本が出来る3ヶ月前、
まだ、1文字も書けてなかった時。
他の劇団にいる姉に
「ねえちゃんねえちゃん。なんか次のボクの公演、なんか凄いの書けそうやねん。次のねえちゃんトコの劇団の公演とどっちがええか勝負しようや」
と無邪気に言ってみた。
そしたら、予想通りの表情と口調で
「そういうのは勝負とかじゃない」
と返ってきた。
でも、僕は勝負だと思う。例えば、ある高校演劇部の新人公演。
ここぞと笑う、演劇部関係者の観客たち。
「私、この難しいギャグの意味わかったよ」
「俺、この関係者にしかわからない裏設定の面白さわかるよ」
自分がより演劇を楽しみ、より深い縁者、関係者であることを
他者に見せつけるための偽物の笑い。
お客さん同士ですら、こんなに勝負してるのに、
まさか、実際演劇してる人が、勝負してないはずがない。
勝ち負けにまみれた世界。
逃げ出したい、と切に思う、今日このごろ。
こういう演劇を作りました。
本日はご来場、ありがとうございました。
多分野で活躍されてる原田宗典さんが
(実は全然知らないのだけれど)
この前、テレビに出てて、
「小説はお祈り。演劇はお祭り。エッセイはお喋り」
と自分の仕事を分類されてました。
なるほどなー、と思いました。
因みに、僕の場合、演劇も祈りです。
演劇だけじゃなく、
思いつきで短編小説書くことや、
絵葉書に詩らしきものを書いて人に送ったり、
学校から駅まで歩いて見たり、
商店街を散歩したり、古本屋を覗いたり
銭湯に入った後、ミルクティー飲むのも
全て、祈りです。
どうかどうかどうか・・・
「どうか」以下、今日の演劇が続きます。
本日はご来場、ありがとうございました。
チャキチャキの現代ッ子である虫ギライの僕が
これからの人生で一番心配しているのは
一人立ちした時、ゴキブリと遭遇した時にどうするか。これです。
僕が過去にゴキブリと共有した時間で、一番怖い話。
小学校の頃、掃除をしようと、ぞうきんがけから
ぞうきんを取ろうとした時、なんだかへんな感触。
ごそ・・・っと、この世のものとは思えぬ大きさのゴキブリ
ぽそ・・・っと、ぞうきんから足元に着地。
つまり、ぞうきんごしに、でかいゴキブリを掴んだというお話。
手に残る感触。其の時、僕は生まれて初めて恐怖で
「居ても立ってもいられぬ」状態を過ごしました。
つまり、立ったり座ったりを繰り返しました。不思議。
現在。何で演劇してるのか、よく聞かれますが
多分、「居ても立ってもいられぬ」から、だと思います。
何だか、世界に潜むゴキブリに触れてしまって、
居ても立ってもいられず、じゃあどうしてるか、で
演劇している・・・と思います。
よくわかりませんが、よくわかりたいものです。
本日はご来場、ありがとうございました。
父が中華料理屋で母が婦人服屋、
その影響なのかどうか、自分で言うのもなんですけど
僕は相当照れ屋です。
どうしても、「握手して」なんて面と向かって言えません。
僕はとても握手したいのだけれど。
ところで、皆様は、最近握手されましたか?
意外としないものですよね。
僕も、小学校五年の時、連合音楽会で
どこかの音楽教師と握手して以来、してないような気がします。
ので、代償行為として
こういう演劇を作りました。
この劇を観て、もし、ほんの少しでも気に入って頂いて、
それで尚且つ、よろしければ、お時間が許せば、
どうか出演者と握手してやってください。
本日はご来場、ありがとうございました。
凶悪な事件が世間ではよく起こってますが
例えば、もし、すぐ身の回りで、殺人事件や誘拐事件が起きたら、
先ず、「怖い」と思います。
「悲しい」とかが、すごく大きいと思うけど
とにかく、その出来事自体が、恐怖と感じる、でしょう。
知り合いが、殺されたら、すごく悲しいけど
最初に感じるのは、「殺され得る世界」である事実に
とても戦く。怖いと感じるはず。
僕は何だか、最近、ずっとそんな感覚なんです。
別に、身の回りに実際、殺人事件や誘拐事件は起こってないけど、
本当は、知り合いとか、殺されたりさらわれたりしてるんじゃないか、
すぐ近くに、殺人犯や誘拐犯が潜んでるのではないか、
何だかそう感じるのです。
その恐怖に対して、
それは多分、恐怖のごまかしみたいなものなんだけど、
この演劇を作りました。
本日はご来場、ありがとうございました。
言葉が大好きです。
普段、何気なく使ってる言葉も
よく考えて見れば素敵なものばかりです。
(僕如きが今更そんなの言うまでもないですが)
例えば、「おやすみなさい」
夜寝るとき、人にかける言葉ですが
これ、本当に優しいですね。お休みなさい、って。
オヤスミ。
「わがまま」
これは、良く聞いてみれば迫力ある。
わが、まま。
綺麗。
理屈じゃないけど、この綺麗って言葉、
見た目も綺麗。
そして何より、オトがキレイ。
KIREI
よくもまあ、こんなぴったりかんかんな音を
誰か知らないけど、当てはめましたね。感心します。
この言葉、少しでも使いこなせたらと思いながら
戯曲書いてますが、全然まだまだです。
発展途上です。それを観て、聞いていただければ幸いです。
本日はご来場ありがとうございました。
「倫理」と言えば
高校生の頃、倫理の授業は殆ど寝てて
大学の頃は、単位稼ぎに丁度良い講義
退屈で、かたっくるしい言葉だと思われがちだと思います。
僕はこの言葉が、とっても好きです。
(それはきっと、この言葉を知るのが
高校生で授業を受ける前だったせいもあるでしょう)
初めてこの言葉を使われているのを聞いたとき、
意味はわからなかったけど
余程素敵な意味だろうと考えてました。
目的は、最終的には、倫理、だと思います。
そのわからない目的とやらを、倫理という言葉がまとめてくれます。
だから便利。
というのは、時々、イヤなことを(色んな種類がありますね)
論理で正当化されて、僕もそれに従ってしまうことがあるので。
こういう時にこそ、「倫理」という言葉で、自分を世界からガードしなくてはならない。
それは論理的だが、倫理的ではない、って感じで。
この劇、よく、意味が全然わからない、って言われるのだけど
それは、多分、この所為です。論理じゃなくて倫理だから。
本日はご来場、ありがとうございました。
NHKの子供向け番組はたまに見ると面白くて
(母と子のテレビタイムとか)
忙しい日が続いた後、突然、暇になった日
夕刻、うたたねしながら何となくテレビつけて
朦朧とした意識でそんな番組を見るのは
なんだか幸せな時間です。
でも、時々、はっとする。
良いカンジにぼやけてきた意識がはっきりする。
体操のお兄さんやお姉さんが出てる番組。
周りに群がる小さな子供たち。
要領良く、番組を楽しむ子もいれば
すねてはしっこで泣き出す子もいる。
生まれて数年しかたってないのに、
こんなにも、違う個性がある。
要領良く遊んでる子はきっと大人になっても要領良いし
すねてはしっこで泣き出す子は、きっと僕みたいにひねた人間になる。
僕がひねくれた性格なのは、多分僕自身の責任だと思うけど
この小さな子がひねくれてるのは、一体誰に責任あるのでしょうか。
一体、何が原因なのか。
そんなことを考えながら作りました。
なお、この劇の責任は僕にあります。それは確か。
本日はご来場、ありがとうございました。
初日が終わって、家に帰る途中見た三日月は
とても綺麗でした。初めて三日月みた、って思ったくらい。
話は飛びまくりますが、僕は「女性」が大好きです。
こういう書き方すると誤解されまくりですが、ホント好きです。
所謂、女好き、という意味はおいといて、
それは憧れとか、そういう意味に近いかもしれません。
また誤解されそうですが、女性に生まれたかったと
小学校の頃から思ってて、今も思ってます。
(オカマじゃないです)
平塚らいてう先生は、女性が月であることを嘆き
もともと太陽だったジャン、とおっしゃられてましたが
昨日のような月を見ると、女性はやはり月ではないか、
などと思います。
太陽のような直線的な美しさじゃなく
月の不可思議那由他な綺麗さの方が女性らしい。
上手く言えませんが(女性の方はこれ読んでなんて思われるのだろう)
今回、その自分でも上手く言えない、女性について、
色んな方法で、アプローチしてみました。
それが全ての劇じゃないですが、
それが一部の劇です。
本日はご来場、ありがとうございました。
この文章は、1ステージ目が終わった晩に書いてますが、
本番が何回もあるのは不思議なものですね。
普通、どこの劇団も2ステージくらい打ちますが
劇団乾杯は、これが初めてです。
本番いっかい、こっきりかんかん、も楽しいですが
これはこれで、楽しいです。とても。
稽古期間中、稽古に夢中で、
本番があることを、すっかり忘れてました。
今回、8月1日から、23日間、1日も休み無しで
つまり短期集中でこの劇を作りました。
この期間中、劇以外のことは殆ど何もせず
自分が誰だったか忘れるような感覚に陥りました。
とにかく、これは演劇じゃなく
8月という、現実であればいいな、と考えております。
度重なる野外練習で、日向にいるのも平気になりました。
暑いのも、悪くありません。
本日はご来場、ありがとうございました。
僕は小さい頃、あの散髪屋さんとかにある
指名手配犯の顔写真一覧が怖くてたまりませんでした。
ある日、親に、
「ナゼ、指名手配犯の顔は揃いも揃って怖いのか」
聞いたところ
「悪いことをしてるから、そんな顔になってくる」
と返ってきました。
これは、色んな世界の仕組みの中でも
なかなか神秘的な部類に入ると思います。
これは果たして「真」なのか。
別のところで、「銀行員の顔は揃って銀行員の顔をしてる」
こんなエッセイも見かけました。
銀行員の仕事をしてると、銀行員の顔になってくるのか。
・・・逆はありえないだろうか・・・
普通に考えたら、顔なんて変わるわけない。それは生まれ持ったもの。
彼らは銀行員の顔をしてるから銀行員になったのではないか。
怖い顔に生まれたから、指名手配犯になったのではないか。
小さい頃誘拐された子の、現在の顔を予想する技術があるようですが
そのうち、それを応用して子供の将来を予測する技術ができるのではないか。
・・・などと取り止めの無いこと考えつつ、この演劇が出来ました。
そんなわけないジャーン、って大きな声で叫びたいですね。
本日はご来場ありがとうございました。
左脳は論理や言語を
右脳は感性や芸術を、管理してるそうです。
僕は詳しくないのですが。
で、どっちを中心に使ってるか
なんか、腕の組み方とかでわかるそうです。
芸術してる友達同士集って、これを調べると
やっぱり大抵、みんな右脳をふんだんに使ってる。
ところが、僕は、完全に左脳派のようです。
そんな調べ方せずとも、作品見られて
「数学好きやろ」などと言われたりもします。
(好きですが、苦手です)
周りの人間に敵わぬまでも、僕も演劇したりしてて、
これにはちょっと、劣等感を感じたりします。
(この程度で劣等感感じても仕方ないですが)
仕方ないので、精神の合理化作用により
僕は、左脳芸術をウリにすることにしました。
ナンデェナンデェ!感性じゃ何も完成しやしないさ、
リクツでツクリなさい!
左脳で作った演劇ですが、如何なものでしょうか。
さあのう・・・?
本日はご来場、ありがとうございました。
これが最後、ってことは無いと思いますが
(勿論、その可能性も十分にあります)
後、人生の中でも、片手の指で数えるくらい、
っていう可能性なら十分にあります。
これから演劇する数のことです。
やはり、大きな劇団の公演やそのコンセプトをみてると
「前回はこの路線だから今回はこんな感じで」とか
「今回はいつもと違って変わった路線で」とか
そういうのをよく見かけます。
僕にはそんなことしてる余裕がないので
いつも、どの脚本でも、その時の「全て」が
表現できれば、と思ってます。
自己紹介のかわりみたいなのを作りたいのか、とも思います。
ところで、その時の、全て、とは何か、よくわかりません。
絶えず変化する我々人間ですから、
どのスパンで「全て」を表現したらいいのでしょうか。
取り敢えず、8月1日から23日です。この劇は。
そんなことを考えながら、作りました。
本日はご来場、ありがとうございました。
僕は人生で一番、貴重なのは
17歳という時間だと思います。
ふと気がつけば、17歳という時間は
もう、無くなってしまいました。
これは、実にありきたりな台詞です。
何故なら、かなりの人間が、統計的に
17歳という時間が無くなってしまった人だからです。
だから、もし、17歳未満、ましてや17歳の人、
その人の存在自体、最早奇跡的のように思えます。
僕は、幸いにも、17歳になる前に、
その奇跡の予感を察知できたので
1年間、奇跡的な雰囲気を味わい通すことができました。
でも、こうなっちまえば、同じ・・・。誰もかれも。意味ない。
これもまた、その瞬間が奇跡的であるが故の、
それに付随する無力さ、虚しさでしょうか。
今回、脚本を書いてる途中
「高校生は光合成する」という台詞を思いついたのですが
色んな事情により、入れませんでした。
ので、ここに書いておこうかと。
本日はご来場、ありがとうございました。
漠然と、世界について考えるのが好きですが、
ここで、2つ問題があります。
先ず、時間の問題。
世界について考えてる間にも時間が流れ、
時間が流れてるってのは変化してるってことだから、
世界について考えることは
まるで大地震の中、木造文化住宅を建設するようなもの。
もう1つが、・・・なんと表現すればいいのか・・・
身体の問題・・・?
世界の中に、僕がいるのだとして
そして僕は、僕から抜け出すことは決して出来ないから、
その思考作業は、指定席で芝居を見るようなもの?
と言えばいいのか。
普通、演劇は客席から座って見ますが
そこから見えるのは、その角度からの演劇でしかない・・・。
本質にはいつまでたっても近付けない。
演劇を、あらゆる角度から同時に見ることが不可能みたいなもの?
とにかく、世界について考える、この大変な作業の前に
そこに入るまでに、こんな2つの難問がある、などと愚考してます。
・・・で、何が言いたいのかというと
何か言うのは、恐ろしく大変な作業ですね、ってことです。
でも、僕ら劇中で、何か台詞を言うと思います。滑舌悪く。
大した台詞ではありませんが、こんな思考の上での台詞です。
本日はご来場、ありがとうございました。
このパンフレットにも
しっかり劇団HPアドレスとメールアドレスが
書かれていますが
僕は、これらIT革命の産物が大嫌いです。
理由は沢山あるのですが、
大抵、否定してる僕に対して周りに人間は
「まあ使ってみると便利だよ」
と言います。
別に、不便だなんて思ってません。
便利だからこそなんです。
IT革命で世界が滅ぶなんて思ってませんが
世界が滅ぶなら、それは携帯電話を手放せないように
免れないんだか免れそうなんだかわからないうちに
って感じになっていくと思います。
そして、まあ、僕も同罪だと思います。
そう言えば、「同罪」という言葉を脚本に入れ忘れてしまいました。
ので、ここに書いておきたいと思います。
この文章に当たった方は、心の中で、「同罪」と呟きながら
観劇すると、イコウル´(ダッシュバージョン)になると思います。
本日はご来場、ありがとうございました。