下へ下へと続きます。
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稽古してない日報
公演終了。ご来場ありがとうございました。
……ッて、アレレ、もう終了? そんなバナナ。まだ冒頭のセリフ覚えていないし、用意していない小道具もある。物販に掲載するはずだった各種雑文もまだ書いていない。知人に、本番の存在すら報せていない。何より、脚本がやっと仕上がったところで、これから稽古だってのに。
それでも、容赦なく、本番はやってくる。そして終わった。
公演を打つこと、そしてそれを観てもらうこと、その根本的なところで、ひたすら悩む日々が続いた。
今回の来客数は、約170人。3ステージに、毎回50人前後の人が入り、賑わった。
が、数ではない。しかるべき告知を行えず、
毎度、こなかった人から連絡が届いたりする。ごめん観にいけなかった、また次も是非、誘ってね。観なくても、それもひとつの選択であり、鑑賞方法であるから、当然、謝る必要はない。でも「次を」とは言わないでおくれ。次は、ない。
演劇は、出会いでなく別れ、陳腐なアレだが、演劇は、葬式である。
レビューが幾つか。
言及いただき、ありがとうございます。
ここでもまた、反応できれば致します。
その他、ご感想があれば、何時でも何でも、どうぞください。それが唯一の糧です。
このメールフォームが、もう少し早く用意できればなー。全く、何もかもが準備不足だった。
僕の今後の予定。
最終ステージに挟み込みがありましけれど、詳細は不明だが、子供鉅人の本公演に出演する。ここの日報、色々書いてた江波ノッコも。
そして、これまた未定で企画倒れる可能性も高いが、某劇団(って僕と付き合いのある劇団は、あそこしかないですが)の脚本を担当するかもしれない。1年、時間をやるといわれたので、書ければいいなと思う。とかく、機会があるのは嬉しいこと。
その他、色々あります。どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。
アンケート上で、または伝聞で、「最後のせりふ」への批判が集まっている。
最後のせりふに関しては、勿論、劇団内でも問題になった。でも結果的に、押し通した。
公演が終了した翌日。仕事で三宮まで行って、その帰り。駅で電車を待っていると、停車している別の車両から奇声が聞こえてきた。見ると、醜い青年の障碍者が、座り込んで顔を歪ませ、何かしらの不満を叫んでいる。傍らで、母親らしき人が、同じく座り込んでそれを見守っている。青年は、何故か、自分の頭をぽかぽか叩いている。母親は、その状況に、慌ててはいなかった。疲れてそうではあったけれど、青年に、無言で冷静に対していたように見えた。
この青年の、声にならぬ言葉にならぬ音、を、僕が勝手に翻訳したのが「最後のせりふ」である。勿論、それが浅はかと言えばそれまでだろう。が、その声を、もっと気の利いたものと思い込むのもまた勝手な話だ。あのせりふを、僕、山本のせりふとすれば批判もわかる。が、この青年のせりふだったとするなら、それでも「つまんない言葉」「やっつけ仕事」「きつい」「不条理」と言えるのか。
昼寝する。本番の夢を見る。劇場へ出発直前、忘れ物ないかチェック。車を待たせて自宅に戻る。そういえば展示に使うパネル持ってってねーやと片っ端から未使用のものをかき集める。途中、誰かがでてきて雑談。車を待たてたことを失念する。思い出して、急ぐ。そこで一旦、話が途切れる。これが夢であると気付く。何だかものすごく腹が立っていたので、あたりのものを破壊しようとする。どうせ夢だから何したっていい。そこにある自転車を、自宅のドアに投げつける。目が覚めるまで好きにしていい。それよりも、ちゃんと僕の脳は、この情景を描ききるかな。そう思いながら手当たり次第、投げつけたり叩きつけたりするけど、その破壊の様子を僕の頭はきちんと描ききり、破綻せず、夢に留まる。それからも無茶を続けるが、異常なほど、夢の描写は追いつく。でも、やがて目が覚めた。
土曜日の昼。事務所近くのギャラリーを巡回する。特に面白いものはない。
夕方、アサダさんのパフォーマンスを観に行く。アサダさんは、今、僕の雇い主であり、それ以前に人生の先輩であり、藝術表現のキャリアとしては遥か上を行く人であるが、まあ、ひどい代物だった。自分を棚にあげるけれど。これなら、2階から目薬を指していた方がマシだ。
しかし、周囲の(例によって)内輪な空気はこれを許しているようなので、こんなものにも慎重に、言葉を重ねて、ひどい理由を説明せなばならない。
その会場で、contactGonzoの塚原さんと三ヶ尻さんに会い、終わってから飲む。さっき見たパフォーマンスがひどいものだということを確認し、近況を伺う。
お久しぶりの公演につき、しばし雑記を復活。
劇団乾杯は堺市を本拠地とし、最近某宗教系財団が指定管理者となった青少年センターにて稽古を行ってます。劇団員もだいたい、その辺りに住んでて、僕も家からちゃりんこで15分くらいかけて通う。
が、最近、僕自身は大阪市内の事務所に棲んでいるので、阪堺線、チンチン電車に乗って行く。風流で、いいじゃありませんか。南霞町から綾ノ町まで。駅名も、美しいじゃありませんか。数年前『ハンカイ』という阪堺線の短編を上演したが、こんなに利用することになるとは。
期間限定の、通勤路や通学路があるのは、楽しいことです。通稽古路か。他に何があったか。維新派の屋台村を手伝ったとき、公演期間中は毎日南港へ通った。住之江公園まで自転車で行って、そこからニュートラム。去年は、本町のstudioに半年ほど通ったが、あれは事務所から自転車で通えるので、あまり感慨はない。都心部はねえ。
ここのタイトルは「稽古日報」とした。まあそれはどうでもいいのだが、何故日報なのかというと、業務的な言葉や装置が好きだから。日記じゃなくて、日報。
実際は、日報とか、面倒で今日も出してないけど。会社に入って楽しいのは、各種の業務的な概念に包まれること。ままごとみたいで、楽しい。例えば、回覧の書類が回ってきて、判子をポンと押して次にまわすとか。それが、なんとなく可愛い。
伝票、という言葉や概念も好き。もう、何をするにしても、伝票が付きまとう。うざいが、なんでもないものにも、格式ばった紙切れが一枚、健気に付き添う様は、なんとなく嬉しい。不可視のものが、見えた感じ。まあ、伝票とはまさに、見えないものを見えるようにする装置なのだが。
タイムカード、及びタイムレコーダーもいいですね。タイムカードが、出欠管理するだけなのが、勿体無い(そう思う会社員は、たくさんいるはず)。今は味気ない電動式なのだが、一時、故障したとき、業者が代替品に古いやつを置いていった。それは、どういう仕組かわかんないけど、カードを差し込むとカタンていって中でスタンプが押される。なので数字そのものも味わいがある。
タイムカードを押すことを「打刻」という。詩的且つ事務的という稀有な言葉。響きも良い。
僕ら、劇場で公演するのは久しぶりというか、-IST零番舘程度の規模で公演するのは初めて。なので、根本的に舞台周りのあれやこれやがどうなっているのかわからない。あれやこれやが何かすらわからない。
このままでは泣けるので、今度-IST零番舘で公演する劇団の楽日に、雑役夫として潜り込み、あれやこれやを実地体験することにした。
Amusement Theater 劇鱗「仏契」。4/18日(金)から20日(日)迄。お礼に宣伝を、って、もう始まってますけど。すみません。
子供鉅人の公演も始まる。なんだか騒がしくなって参りました。むずむずする。益山さんも、今やずいぶん立派なお方だ。写真見て写真。『ウジカヴィカジコ 〜あいつらは外国人なのかな〜』の様子も観てるだけで面白い。コイツァー「4 1/2」も楽しみだぜ。
較べて、僕らの地味なことよ。ま、いいや。
4月末には唐組公演『夕坂童子』も劇団員みんなで観に行く。実は(と明かすことでもないのだが)稽古が始まる前から、何度か劇団員と観劇ツアーを行っている。お勉強のためですが、というか、劇は観ないと意味ありませんものね。上演することと観劇することを、不可分としたい。
といいつつ、自劇団の公演を目前にして、忙しくて観れない。これは良くない。あ、先日は今をときめくFrance_pan『ジャン=アンリ・ファーブルの一生』は観た。面白かった。畜生。面白くないと思ってたのに。今をときめく劇団の芝居を観て「ナーンダ、余裕で勝てるじゃん」と自分を励ますつもりだったのに。
ということで、Amusement Theater 劇鱗公演「仏契」に雑役夫として潜入。劇も観させていただきました。ありがとうございました。
バーリバリのエンタメ。端的に言えば、脳死の逆、脳のみの生。テクノロジーと宗教を明確に対立させて(文字通り、西日本と東日本に国が分断されている)物語を構成している。
最初の長科白が格好いい。世界観紹介のために、「ドイツがベルリンの壁で隔たり、朝鮮が38度線でわかれ、ベトナムが……」
みたいな科白云々(正確じゃないです)。
あ、38度線と言えば。山本正之の歌に、なんだっけ、「アニーよ恋をとれ」か。タイトルからして良いのだけれど、その歌詞に「38度の熱にうなされているのなら、私の肌の中で火照りを鎮めて」
ってのが、あって、この言い回し、格好良い。山本正之「ニューヨークもの」のひとつで、ニューヨーク在住、朝鮮出身の青年と恋に落ちる話。もちろん、馬鹿な僕は「38度の熱で大袈裟な」と思ったわけです。何度か聴いて、ああ、風邪引いてるんじゃなくて、故郷を憂いているのね、と気付いた。これこそ格好良い、言葉遊びですよね。
「稽古日報」ながら、稽古のことが出てない。なので、今晩の稽古のことでも書こうかなー、と思いながら、その日の昼、事務所の近くで優雅にカレーを食べてた。
商店街を歩いていたら立看板を見てその店に入ったのだが、あれ、このお店のシンボルマークは……。偶然にも、このマークをデザインした奥村昭男のサイトを数時間前に見ていたのだった。アジアタッグというお店。
それはともかく、そこでカレーを食べてたら劇団員から電話があって「今、何処にいる」と。稽古昼からなのを忘れていた、というお話。
カリカリとプリンターは仮チラシを刷る(江波ノッコ・書く)
山本「唐組(敬称略)の挟み込み……明後日みたいやねんけど、行きたいと思うんやけど」
江波「あっそうだよねー、行ったほうがいいよね。でも、チラシ無いよね!」
山本「だよねー。」
本公演のチラシ、まだありません。約1ヶ月前ですが……。
(※デザイナーの名誉のために申し上げると、私たちがだらだらと先延ばしにしたせいです。)
現時点で、仮チラシと口コミ以外ほとんど一切宣伝をしていないわけで……客より役者が多い本番がリアルに想像できそうな感じ!ああ!
とにかく唐組さんの公演の挟み込みには行かないといけない、という結論に。
もう明日に迫った挟み込みに向けて、本日朝から桜川くんだりのO商会まで紙を買いに行く。きさくな店員さんに癒されつつ、大量の紙をかかえながら、営業(本業)周りをして、仕事帰りに印刷機がある知り合いの事務所に寄る。これを印刷して、このあと仕事(副業)に行って、終電までに明日挟み込みに行ってくれる相原にチラシを渡しに行かねば!と、ギリギリのスケジュールを頭で反復しながら、印刷機に原稿セット!しかし、そこの印刷機と私の持参した紙の相性が合わず、何度やっても失敗。ボーゼンとする間も、紙と印刷に相性とかあるという新しい知恵を授かった感慨にひたる暇もなく、お家にダッシュで帰り、800枚、仮チラシをプリンターで印刷いたしました。合間に仕事(副業)にも行きました。相原にも無事チラシをたくしました。
何が言いたいかというと・・・何でも早めの準備が肝心だよね、早めのパブロンだよね、なんて教訓めいたことではなく、今回のその、唐組さんに挟み込まれるすべての仮チラシには、私の指紋がべったりとついているんだなあ!ってこと!
ワォプレミアム!
私が指名手配された折には是非このチラシを警察に持参していただきたい!
さらに、800枚のうち、十数枚、印刷の乱れがあるチラシがあるんですね、それはね、あたりです、あたり。幸せになれるお守りです。
さあ、皆、幸せになれる仮チラシをゲットしに、唐組の公演へゴー!だぜ!
と、この日報、他のお芝居の宣伝ばかりだな。劇団の卑屈さがにじみ出ている……。
とりあえず私は明日もフルタイムで仕事なんで、眠らせていただきたいと思います。
芸名、について。(江波ノッコ、書く)
劇団乾杯で、現在「芸名」を名乗っているのは、私の知る範囲では3人。私、江波ノッコと、制作まわりの梅田メメコ、それから主催山本握微。三人三様胡散臭い。
というか、「芸名」って響き自体がちょっと恥ずかしいので、「偽名」って言いたいと思います。
私ぶっちゃけ本当は河野美苗(コウノミナエ)といって、その名前で以前から乾杯に参加していたんですけど、もう大分以前から自分の本名の大層な雰囲気に恐縮しっぱなしで、「美」って名前につくのは、何かのあてつけか?と、ともすればぐれてさえしまいそうな勢いで、自分の名前に違和感を感じておりました。しかも呼びにくい。あだ名もつけにくい。私に友達が少なく、内向的な性格なのは、おそらくこの名前が原因の5パーくらいは占めているはずです。で、「エナミノッコ」、確かにアホっぽいよ、正直自分でも名乗りあげにくい。しかし「ノッコチャン」、呼びやすい!友達ができそうな感じです。大募集中です。あと、「カッコつけてるんじゃなくて、実は本名を逆から読んだだけなんだ、テヘ」って言い逃れしやすい。どこまでも半分後ろ向きな理由。
梅田メメコは、梅田は本名で、あだ名が「ウメちゃん」→「メメちゃん」→「メメコ」と変化していった末、この偽名に落ち着いたそうです。ああ、人とのコミュニケーションを介して名前が誕生する、正しい偽名のつけ方でしょう。つげ義春先生の「ねじ式」に出てくる「メメくらげ」を彷彿させる感じもあります。
最後に山本握微。山本、という苗字は恐らく日本で1,2を争うメジャーな苗字、それだけ人生でヤマモトさんに遭遇する機会は多く、さらに、数打ちゃあたる、とでもいいましょうか、遭遇するヤマモトさんに、一風変わった人が多い、ヤマモトというどこにでもある名前を持ちながら、今まで出会った人の中でヤマモトさんって、強烈な個性を持っている人が多いような気がしませんか。多分そういう意味で山本、を名乗っているんだと、思う。で、握微は、「微かなモノを握りしめる」って意味だったように記憶しています。握りつぶす、じゃないわよ、念のため。
それにしても芸名を名乗ること自体、ものすごい自意識過剰で小者っぽい・・・ということも見逃せない事実。しかしかの有名な北村想センセーも、芸名をつけることの大切さを『高校生のための実践劇作入門』(白水社刊)で語っているじゃありませんか・・・しかし「想」って芸名は果たしてどうなのだろうか、かっこよさ過ぎてカッコワルイに入ってしまうのでは・・・とか、また演劇界を敵にまわしてしまうようなことを口走ってしまいつつ、偽名についてのとりとめのない話を終わりたいと思います。
あ、そうそう、今度のお芝居でも、「名前」がキーワードになる瞬間があります。
でももう、キーワードが多すぎて、何がなんだかです、実際。
宣伝活動やフライヤーについて考えると気が重くなる。「ああ、如何に魅力的なフライヤーをつくればお客さんが来てくれるだろう」という悩みではない。
作品を何故宣伝するのか、とか、そもそも何で作品をつくり、他人に観てもらうのか、という根源的ところに行き当たり、僕の記憶力では問題を把握できなくなって、無思考状態に陥る。
ちょっと視点を切り替えて。この前、観た芝居が面白くなかったんで途中退出し、試しに受付で金半分返してって言ってみた。馬鹿な劇団はここで、へらへら苦笑いしながらお金を返すのだけれど、そこはしっかりしていたんで、その要求を突っぱねた。
まあ、それはいい。だが、そこから先のロジックは大変だ。で、幾つかその話を聞いた。
そのロジックのひとつに、「事前にフライヤーで作品内容をある程度判断できる上で劇を観に来るのだから、その判断責任は観客にある」というのがあった。しかし、これそうか?以前、別のところでも揉めたんだけれど「フライヤーに書いてある」って。フライヤーは何を負っているのか。
しかし、「演劇人」たち、あなた方普段は、自分たちの内向性に対してはやたらと批判的じゃないですか。関西小劇場界とやらは、観客の少なさ、低迷を問題としてるわけで、先日もこういうのありましたやん。
えーと、限られた人でなく、色んな人が演劇を一般的な文化として親しむことが理想ですよね。僕も全くそう思っています。この理想通りにことが進めば、客席の顔ぶれの比率に変化が生じ、何かやってそうなお洒落な人ばかりでなく、スーツや作業着の人の割合が増えますよね。これは当然の帰結として。
で、その背景には、色んな人が「さて、いっちょ芝居でもみっか」と、ひょい、劇場に入れる、入ることが理想です。ひょい、と入っても面白い芝居ばかりという、作品自体の進化が必要ですが(もちろん、作品が万人に受ける形を目指すのではないので、観客の受容回路の進化も必要です。が、作品も当然、進化が必要です)、この形態が理想ではありませんか。それは、限られたルートでしか手に入らないチラシの束を精査し、事前情報をチェックして観に行くようなものじゃないでしょう。
理想ばかり言っても仕方ないので、体現するべく、僕は就職し一般社会人として(内輪の客でなく)、ひょいっと劇を観ているのです。ところが、その結末は「フライヤー見てないの?」ですぜ。
「作品が面白くなければ、次から観に来なければいい。本当に作品が面白くないのなら、やがて観客は減る。そして、潰れるだろう。だが、今、あなたに金は返さなくていい」ときたもんだ。馬鹿野郎、他の観客や、劇団のその後のことなど知ったことか。僕は今、この作品について、やりとりしたいの。その作品について、入場料なり何なりの責任を負って欲しいのです。
だいたい、経済的な云々で持って劇団の運営を捉えているけれど、現状の低迷する観客層で、なんとか継続してきたんでしょ。なら、この先、作品が面白くなくても潰れはしない。内輪客に多少の入れ替えあれど、それでやっていける(或いは何時までもやっていけない)。現状の小劇場を、普通の淘汰作用で考えるなよ。それが本当に適用されるなら、痛い劇団はとっくに消えているはず。
とゆーか、ある意味それはそれでいい。それこそがいい。なのに、日頃は社会のはみだし者を気取る連中が、いざ自分の作品を庇護する番になると頑なに社会常識を持ち出す。「一度払った金は返らない」?そうね、社会常識じゃそうでしょう。でも僕は、僕の作品に値段を設定し、それが面白くなくて金返せと言われたなら、死ね俺の作品を理解せぬ愚者め、と呪いながら金を投げつけて返す。
僕は、面白くなくても観に行く。面白くなくてもそれをする、それは見過ごすごとができないし、絶えず検証せねばならない。「嫌なら観るな」と言われるのが一番嫌で、嫌でも観ますよ、それを良しとしているのなら。
話が迷走してきた。言葉は常にリニアだが、意味は分岐していく。なので、何時も上手く文章を書くことができない。故に演劇という形態(とりあえず、お客さんに数十分も黙って観てもらう、時間的な広がりを持ちつつも物語仕立てでひとつのかたまりとして受け取ってもらう)をしばしば執り行う必要が僕にはあるのだが……あ、また迷走した。
ひとしきり迷走した後、話をまとめるのが好き。フライヤーの話だった。
僕は、自分の作品が面白いなんて言わない(思っているけど、自分から言わない)。面白いか面白くないかはどうでもいい。とにかく、ともあれ、僕は芝居を打つのだからそれを見届けて欲しい。それだけ。
客に、何も与えるつもりはない。だから、対価も取らない。フライヤーを考えるのは好き。だが、それは作品とは別。フライヤーがどうであろうが、とにかく観て欲しい。
しかし、こう言うと「面白くない言い訳として金をとらない、くだらない自己満足の所産」と受け取られるからな。それに、これだと不特定多数の客には届かない。
不特定多数の客は……まあ、そこまで考えは及ばない。ただ、これを知り得た人、とにかくその人、その人は、どうか観に来て下さい。
(S書く)
今日、立ち稽古の録画映像を見ていたところ、怪奇現象を発見!
とあるシーンで画面左上に白い浮遊体が現れ、ゆらゆら飛んで消えました。映像の乱れとかでもないようです。
どうせならもっとそれっぽいシーンで現れればいいものを下らんところで出やがって・・・もっと相応しいシーンが沢山あるのに。
祝日は、金岡公園の体育館裏で稽古。昔から、外で稽古する時はここ。
役者が四葉のクローバーを探していた。
本番も近づいてきた。ミーティングは加速。ただ、脚本だけが仕上がらない。
おっと、展示もあるんだった。いかんいかん忘れてたぜ。
怪奇現象と言えば、昔こんなことがあってのう。
都市伝説で有名な、と或る「呪いの曲」があってな、僕は面白がって、と或る二人芝居のオープニングに使ったんじゃ。
稽古場で、初使用した翌日に、役者Aが交通事故。
公演終了後に、役者Bが発狂。
結構、笑えないことになったんじゃ。おしまい。
僕は何とも無かったが、今にして思えば、吉原云々落選や稽古場有料化などは、これの所為か。あの公演を観に来てくださった方は身辺にお気をつけ下さい。
「アラユル」「イコウル」「ハンカイ」「オシロ」「リ」など、乾杯の芝居の題名は、シンプルなものばっかだ。本当は、せりふっぽいのが好き。「ありがとう、って言っておく」とか(乾杯ではこれだけだが)。僕が知る限りだと、太陽族の「それを夢と知らない」や、MONOの「その鉄塔に男たちはいるという」あたりが格好良い。
それはそれとして、今回の題名は、良いではないですか。とうとう記号。ブレス。息継ぎ。面白そうではありませんか。当然、ブレス、「祝福」の意味を兼ね備えているわけでございますわよ。
次に公演があるとしたら、題名は決まっている。いつも、タイトルありき。とられないように、予めここに記述しておこう。「街街」。これで、まちがい、と読む。面白そうですね。
だまし絵のような(江波ノッコかく)
小道具を作っている。
アレにも見えて、アレにも見えるようなモノです。アレにも見えるかなーアレにも見えるかなーって思いながら試行錯誤。だまし絵を書く気分。
私は小道具の中でも布物担当なので、布のデパートみたいなとこによく行きます。そこの店員の人たちはいつもいい感じにやる気がなさそう。レジうちながら「疲れた〜今日もあとちょっとや」とかゆってる。たまにクレジットカードとか慣れてない操作でレジうまく打てなくて大騒ぎしてる。
最近布の図り売り場に配属されたお姉さんが、やたらと話しかけてくるけど、なんだろう?営業?ってわけでもなさそうだし。
今までに無いタイプの店員さんなので、密かに注目しています。
(S書く)
今日、高床式ベッドの鉄骨に頭を思い切りぶつけました。もう目ん玉2ミリ飛び出す程ものすっごく痛かったわけです。死ぬ程。
で、思ったのです。
今までにこれに匹敵するくらいの身体的な痛みを被った時はいか程あっただろう。
小さい頃、エレベーターの段差の角に足をぶつけた時、
小学生の頃、男子の遊んでいる縄跳びが目にバチコーンと命中した時、
中学生の頃、男子(男子によってもたらされる被害が多い)の投げた雪の塊が頬に
クリーンヒットした時、高校生の頃、バス内で激しい腹痛に見舞われた時、
大学生の頃、チャリンコ立ち乗りした瞬間ペダルから足を滑らせ転落した時、
社会人になって、蟹にあたって嘔吐が止まらなかった時、
それからそれから舌噛んだ時、足くじいた時、指つめた時・・・等々
即席で思い出せるだけでも数十パターンありました。わーかなりあるじゃん。ちょっと待て。
まだ二十数年の人生でこんなにもあるの?じゃあこれからもっと何十、何百もこれに匹敵・・・いや、それ以上の痛みに遭遇する可能性があるのか。うわーそんなの嫌だ。
でも一度もそんな目に遭わないように生きるなんてそんなの一挙一動にものすごく
気を遣わなけりゃ無理だ!私にはできない。と、思うと生きるのが嫌になりました。
かと言って死ぬのはやっぱり死ぬ程痛そうなのでなるべく痛い目に遭わないように
気を付けて生きようと思います。そんだけです。
夢を見ることは回避できない(江波ノッコ)
本番の日、目覚めたら、本番の時間を大幅に過ぎていた。その上、それをなぜか辻中(役者)のせいにして、口汚くののしった。という夢を見た。
えげつない自分の一面を夢で発見してしまい落ち込む、でも現実は別に変化なく穏やか、しかしこのやり場のない気持ちはいったい。誰に謝ればいいのでしょう。
村上春樹の『海辺のカフカ』によれば、見る夢もまた見る者の責任の範疇らしいけれど。
とりあえずは今度の稽古の時に美味しいものでも持っていきます。せめてもの罪滅ぼし。
下まぶたと上まぶたが仲良し(江波ノッコかく)
眠いです。
常に眠いです。人生に支障をきたすくらい、眠いです。
私の知人が私に抱く共通のイメージは「眠」だといって間違いありません。すきあらば目を閉じようとしてしまうこの体。
さて、眠いときどうするか。
コーヒーを飲むとか、顔を洗うとか、ミントタブレットを食べるとか、いろいろ手は尽くします。たいてい無駄に終わりますが。
最近イチオシの眠気覚ましアイテムは、
「トメルミン」
っていう眠気覚ましタブレットです。
さまざまな眠気覚ましを試してきましたが、今のところ、これが一番の効き目。
「トメルミン」=「止める、眠」と思いますが、ちょっとかわいい名前だと思いませんか。
ちなみに眠気覚ましの代表格みたいな栄養ドリンク、眠眠打破、これもネーミングがものすごいですが、私はあれ、まずすぎて飲めません。「打破!」って感じが。もう身体そのものを「打破!」してしまいそうな、破壊力。やっぱりかわいくぶりっこ「トメルミン」。
何か、眠気に超効くアイテムがあったら、教えてください。
ブレスを観て、ブレスを観よう(江波ノッコかく)
奇しくも5月31日から、「ブレス」という映画が公開されるそうです。
「うつせみ」、「悪い男」のキム・ギドク監督作品だそうです。
正直この人の作品を観たことないからコメントできません。すみません。
バイオレンスなイメージはあるのですが。
同じ題名だからといって特に共通点もなさそうです。そりゃそうか。あったら怖いですね。
はさみこみレポート(江波ノッコかく)
5年ぶりくらいに、チラシの挟み込みに行きました。
ずらーっと並んだチラシ。そして、チラシ持参で挟み込みに来たのは私を含め四人。
もちろん、その四人で挟み込むわけではなく、劇場のスタッフの方と、その公演の劇団員も一緒に作業しました。
このずらーっと並んだチラシって、どこから来るんだろう?って、疑問に思ったので、聞いてみましたところ
1.その劇場でもうすぐ上演する公演のチラシ
2.劇場が「依頼」して、他劇場公演の上演チラシを送ってもらっている(通称バーター)
だそうです。
クレームだと思ったのか、ことばを選んで話されていたのがおもしろかった。
「依頼」って。
劇場としては筋は通ってるわけです。
あ、もちろん、別にクレームを言うつもりではなかったんです。そんな恐れ多い。
ああそうか、それが演劇界のヒエラルキーなんだなあと思ったというわけです。
有名劇場で公演する有名劇団のチラシの群れの一番後ろに、弱小劇団が自らチラシを持参し、自ら挟み込ませていただく、ということなんだなあ。
下積み?とかそういうことかもしれない。
こんな偏狭なことを考えるようになったのは、自分がお金をもらって働く人間になったからかもしれません。今こうして挟み込んでる時間も、働いていたら賃金が発生するわけだから。嫌ですね、そういう考え方。自分をお金でしか換算できないみたいな。
自由闊達な芸術の世界にふさわしくないぜ。
5年前の私は、挟み込みに行くのすら、ドキドキして、楽しかったな。数々の有名劇団のチラシと、自分たちのチラシが一緒に挟み込めるということ自体が、嬉しかった気がします。
えー。これ僕だったら、チラシ並べた長机、蹴っ飛ばして帰ってますよ。
昔、某演劇家族のチラシと乾杯のチラシ二種類抱えて、折込行ったら、怒られた、ということがあった。まさにその通りで、二種類に対しては、ちゃんと二種類分の労働力を用意しないと。あの時は申し訳ありませんでした。
勿論、その劇場が抱えてる公演とか、そういうのは別にいい(それこそ折込させていただいているわけだから。観客の便宜もあるし)。「依頼」とかいうロジック使うなら、そちらこそ、こちらに依頼せえよと。江波の言う通り、労働力は無料じゃない。明らかに、折込させていただいている謝礼として、こちらが支払う労働力を超えているでしょう。非常識にも程があらあ。
僕の折込経験で、こんなのはないな。一般的なのですか?
この公演終わったら、僕も折込に行ってみよう。同様のことあれば議論吹っかけ、筋が通っていなければ蹴散らす。って、公演終わったら折り込むチラシがないな。まあ、それは適当にでっち上げよう、折り込むためだけのチラシ。どうせでっち上げるなら「不条理なチラシ折込の実体を暴く物語」という芝居のチラシにしよう。でも、いざとなった時、嘘のチラシじゃまずいか。あ、それなら、公演日とか会場とか、折り込む日と劇場に合わせる。その場で起こる議論を、演劇としようじゃありませんか。昔「劇団彗星伝単」っていう、本公演をしないがチラシだけ作るという劇団を架空したことがあるが、それの新しいバージョンとして。
バーターやってる劇場は、お覚悟を。納得のいくロジックを用意しててね。
トップページの、ランダムに表示されるせりふ、追加。久しぶりに。「セカイノシクミ」「オシロ」「ハンカイ」のせりふ。今、全部で250種類くらいあります。
さっき、銭湯に入って、出て、身体を拭きながらテレビの音を聞いていた。何やらニュース番組で、識者が、田舎の道路について、どうろこうのと言っている。「結局のところ、スーパー銭湯なんですよね」と識者が言って、ああ、そうだよなあ、おっきな道路の脇にはスーパー銭湯だよなあ、スーパー銭湯があれば、人も来るしね、無いと、人来ないし道路作る意味がないよね、と思った。でも、よく考えれば、「数%の」って言ってたんですね。もうすぐ本番です。でも、脚本が未だ完成していない。
本を読むロボット君。劇とは一切関係ない。仕事で作った。
脚本が書けない。まずい。今、これを書き切れないことには、何も進められない。
JR神戸線の車窓から(江波ノッコかく)
仕事でよくJR神戸線に乗ります。
大阪から神戸三宮まで新快速で17分。
昼得切符を買えば、片道235円で行くことができる、それ地下鉄二区間分!
案外近いものです。
座れたときは即爆睡ですが、運悪く座れなかったとき、ぼんやりと車窓を見る。
そしたら、大阪と福島の真ん中あたりで、あるものが見えます。
それは、「劇団五期会」と書かれた窓。
オレンジ色のシンプルなロゴで、ビルの窓に書かれた「劇団五期会」の文字は、大きくはないのですが、立っている目線とちょうど同じ位置で、存在感がある。
毎日何百人の人がこの窓を目にし、時には「そうだ、世界には演劇という文化が存在したんだった」と思い出すかもしれない。普段演劇とかかわりのない人に、演劇というものが「ある」ということを思い起こさせる存在としての、「劇団五期会」(の、窓)。
劇団五期会って、観たことないんですが、ただその窓だけで、存在意義を果たしている気がします。
本番まであとすこし(江波ノッコ書く)
ミーティングのときに飲み物ひっくり返したのも
わりと頑張って用意した小道具を落として割ってしまったのも
稽古中にお気に入りの鞄の中にコーヒーぶちまけてしまったことも
すべて本番への布石…ではなくて、本番に失敗しないように災いの先取りをしたってことで…そういうことでお願いします。
既に劇場入り。会社帰りの役者が集まり、稽古を重ねる。