演劇の実用について
考えてみる

それは、演劇の可能性とか、現代における演劇とか、そうした魅力的な演劇論の話題ではない。

書店における商品の分類に例えるなら、面白い文芸書、美しい芸術書、深い学術書、楽しい漫画、鮮やかな雑誌、可愛い絵本、といった所謂「本好き」が好きな本でなく、実用書、目的を明快にした凝れない書名、身も蓋もない「暮らしに役立つ」「わかりやすい」「誰にでも」といった接頭語、目立つため赤地に太いゴチック体で白抜きされた背表紙、いわば、ださい本、について、考えている。

文芸書や芸術書が、その内容を超えて「本」それ自体の魅力を放つように―故に「本好き」という人種が存在するように―演劇の可能性云々などについて論じることは「演劇」それ自体の魅力を追求していく作業である。それは楽しいことだけれど、僕が考えているのは、「本」であることは飽くまで手段に過ぎないような―何か別の目的があって止むを得ず本の形態をとっているような―演劇の実用について、だ。くどくど繰り返すけれど。

しかし、本は元来実用のためにあるが、現代における芸術は、どちらかというと目的や実用とは無関係でありたいという志向を持つ。「テーマは何ですか」「この作品で言いたいことは何ですか」といった質問―作品が別の何かによって生まれたのだろうという前提―は、今や愚問とされている。

高校生の頃、「演劇は演説ではない」と演劇部の顧問に教わったのも、そういうことだろう。演説には目的がある。相手に思考を的確に伝えたい、あわよくば染めちゃいたい。そのために、演説というパフォーマンスが実用とされる。そして、顧問が注意するほどに、うっかりすれば演劇と混同してしまうほど、形態は似通っている。

演劇が実用でないとして、じゃあ何か。価値観が多様化した現代において演劇は最早、伝えたい特定のテーマや主義などを物語仕立にしたものでなく、その多様な世界をそのまま描き出す芸術である、とか。端的に言えば演説が「何か」ならば演劇は「如何な」が肝である……これは、勝手に把握する限り、現代的な芸術表現に携わる多くの人の共通見解であるし、僕もそう思う。

だが、価値観とやらは、世間で言われている程には多様でない、と思う。だから、作品(に限らず日常の各種話題)やその見解を「人それぞれ」として追求せず放置するのが美徳とされるのは勿体無い。たまに議論しているかと思えば、主な戦術は「信じられない、理解できない」と恥ずかしげもなく無知をアピールしてみせたり、相手を憐れんでみせることでとにかく自らを優位に立たせる、あれだ。到底、多様な価値観を交換しているようには思えない。しかし自らを貶めるパフォーマンスが、この多様な価値観の内では有効な手段として罷り通る。「私が正しい、あなたが間違っている」では、価値観の多様性を認めていないことになるものね。

一方で、例えば異国の諍いに対しては「反戦」で悉く一致する。ごく普通に考えても、それこそ多様な価値観の軋轢から生じたはずで、生半可には到底結論できないはずだが、こうした問題に対しては苦労して思考を突き詰めていくよりも、価値観が素朴であることが尊重される。戦争を前にして、競って幼児退行を演じる。先の戦争で、常日頃は難解な現代アートに携わる連中が、一言「殺すな」を合言葉にして集まったのは記憶に新しい。……まあこの語の発案者は、深い思考の上、この言葉を編み出したのだろうが、共鳴者の多くは、その単純さに心惹かれたはずだ。

芸術に対するよくある愚問のひとつに「芸術が、地球上の飢えに苦しむ人々にとって、一体何の役に立つのか」というものがある。答は色々ある。最もよくある答は「そりゃ直接は救いませんけど、問題提起はできるんじゃないか。長期的には救えるかも」か。開き直って「何の役にも立ちません」も多い。おそらく模範解答は「何故、芸術が飢えた子供を救わなければならないのか。それをやるのは社会や政治であって、少なくとも芸術が役に立たないからと責められるいわれはない」だろう。これを更に突き詰めて「地球上の飢えに苦しむ人々は、芸術の役に立つの」という挑発的な答え方もある。

さて、しかし、思うに。この愚問は、芸術を良しといない人から発せられたのだろうが、その背景には、芸術には、例えば飢えに苦しむ人々を救うような、少なくともそれを匂わせるような、期待させるような何かが、漠然とあったのではないか。その人にでなく、背景に。それがその通りでないから、一体何なんだね、となる。芸術には、何故か、それがある。数学苦手な癖に、なんだか格好良さそうな心理学者に憧れるような、あれ。真偽はともかくとして、それは無視できない。

そして「何の役に立つのか」という疑問に対し、ダイレクトに「役に立ちまーす」という方法が、実際ないけれど、あってもいい、と思う。飢えに苦しむ人々が、芸術の実用によって直接、取り合えず食うには困らなくなる。

僕が演劇の実用について考えているのは「サーテ如何にして我が演劇で世界を救済しようか」などではもちろんない。僕は、異国の諍いにも、飢える人々にも、想像力を働かせることができない。馬鹿な僕は、ただ、身の回りのことを考えるのに精一杯。だから、会ったこともない大統領の悪口を言う発想がないし、明らかに面白くない芝居を観たら金を返せと喚く。ただ、周囲には、何故か大統領の悪口を言って、明らかに面白くない芝居を価値観は人それぞれと許容する人がたくさんいる。そしてその差に、居心地の悪さを感じる。それを、何とかしたいと思う。極めて実用的に。

声の大きい者の意見が通る、と言われるが、大きい声はその大きさによって不快感をもたらし、それほどは通らない。今、席巻するのは、小さい声でも大きい声でもなく、その合間を力強く突き抜ける、言わば「美しい」声だ。故にこそ、アートの力が叫ばれる。

しかし、醜い僕が関心を持つのは、声の大小でも美醜でもない。声が表す言葉、が表す、あの、忌み嫌われし意味だ。「如何に」でなく「何を」であり、演劇ではなく演説である。

本公演はそうした流れを汲んで、巧みに演劇に擬態した、極めて実用的な演説である……というわけではない。「演劇の実用」というお話を含む、極々普通のお芝居でございます。この安っぽい仮チラシに目を留めて、更に裏側の、長ったらしい文章を最後まで読んでくれた御方、まあ、何かの縁と思ってひとつ。お代は要りませんので。乱文失礼致しました。