ジマンを耳にすると
ジンマシンが出そうになる
ことについて

もうずっと、自慢と謙虚についてばかり考えている。自慢とは何か。例えば「俺天才やねん!」と威張ること。謙虚とは何か。「僕頭悪くて……」とへりくだること。そんなことはわかりきっていて、今更考えることでもないかもしれない。でも、何を考えていても、結局はここに辿り着く。

まず公理として「自慢は良くない、謙虚は好ましい」としておく……本当はここも考えるべき問題なのだが、複雑化するので今は措いておく。それに、どう転んでも、あの自慢する折に発せられる口調、発音が心地良いものであるはずがない。

余談だが、自慢をした者の弁解として「だって本当のことだし……」というのがよく聞かれる。しかし、ここで重要なのは、例えば頭が良いのか悪いのか、その事実ではない。言うまでもなく、その態度だ。片や好ましいとされる謙虚には「虚」の字まで含まれている。事実に反しても、採るべき態度こそが問題である。

故に、「俺天才やねん!」が謙虚で「僕頭悪くて……」が自慢となることがある。そんな逆転はよくあるし、一回転ぐらいしてはじめて現実の日常に準じる。天才であるはずもないしそう威張る者が良い人なわけない、という文脈を踏まえた上で「俺天才やねん!」は敢えて自分を貶める謙虚になるわけだし、逆に、豊かな人間は頭でっかちではない、という文脈の上では「僕頭悪くて……」が自慢ともなり得る。これを、二次的謙虚、二次的自慢と呼ぶ。

価値観が多様であったり逆転したりする世の中、取り急ぎ大切なのは謙虚な態度であるはずなのだが、多くの信頼すべきはずの人々……つまり芸術文化に携わっている人々など……が一様、未だに「自慢」に耽りきっているのだから呆れる。それは、深く考えているようでいて、実は何かしら仮想した価値観に対して苦しみながら反抗してみせる、安易なパフォーマンスに他ならない。そもそも、仮想された価値観が実在するかも謎だし(少なくとも身近にはない。況や内輪のコミュニティーに於いてをや)、また実在してもそれなりの理由があるだろう。それを真正面から否定するなら好感も持てるが、そうではなく、その価値観が肯定されていることを前提に否定されているのは自分、という立場で謙虚を装う。その実は、自慢に過ぎない。

ミステリーの技法に、一度ダミーのトリックを用意し、解いた者を安心させて、奥底にある本当の謎を隠す、というのがあったように思う。これを手前勝手な言葉で解釈すれば、解いた者の「自慢」心理を上手く突いた罠だ。自慢は、屈折した思考停止でもある。自慢が駄目なのは、単に聞いていてイラつくから、だけではない。思考が先へ進まないからだ。特に二次的自慢は、僅かな思考で算出された結果なので(ダミーのトリックを解いたばかりなので)、余計手がつけられない。

わかりきった答に対し疑問形で立ち向かうことで個性を主張してみせるのはよそう。日頃は挑発的な現代美術家が複雑な世界情勢に対して「殺す・な」と幼児退行してみせるのはよそう。鍛え抜かれたダンサーが身体障害者の動作を独特で真似できないものだと尊敬してみせるのはよそう。哀れみと無知を装うことで相手を遠まわしに否定してみせるのはよそう。死者を弔う体裁で我が生を謳歌してみせるのは、もう、よそう。

僕たちがこなすべきことは、地味で単純な思考作業と、孤独に耐える心積もりと。後は何だろう。

本公演はそれを踏まえて作られた、極めて謙虚な劇である……というわけでもない。そうした気持ちを多少含んだ、面白見世物に過ぎません。お代は要りませんので、是非お見届けにご来場くださいませ。